尾張万歳


知多半島に伝わる尾張万歳とは、新春になると、 烏帽子(えぼし)・素襖(すおう)姿に扇子を持った太夫(たゆう)と、 大黒頭巾をかぶり鼓を持った才蔵(さいぞう)が一組みになり、 諸家へ赴いて新春の寿祝(ほがい)と家内の繁盛を祝い、歌い舞う正月の祝福芸です。 この伝統を受け継いでいるのは、知多半島の北部に位置する地域に多く、 知多市・東海市・阿久比町・常滑市・名古屋市緑区大高町などがその代表例です。 特に知多市八幡(かっての寺本村)がその中心的な役割を果たし、 多くの万歳師を排出してきました。


万歳という日本古来の祝福芸は、大和地方に始まり、 尾張・三河そして越前へ拡がり、やがて全国各地に伝わって行き、 現在の漫才は明治中期過ぎに尾張万歳から派生したものといわれています。

※ 昭和32年1月12日に愛知県の無形文化財に指定されました。
※ 平成8年12月20日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 ≪本内容は以下の文献資料を参考に編集させていただきました。≫
@重要無形民俗文化財「尾張万歳」 平成19年7月13日 知多市教育委員会発行
A万歳資料集一「尾張地方の万歳」 平成13年6月30日 NPO法人「もやい」万歳資料集編集委員会発行

万歳の始まりは、本当のところはよく分かっていませんが、 一説には奈良時代(710〜794年)に当時の中国である隋・唐から伝わったという 踏歌(とうか) が基ではないかと言われています。大和朝廷には、正月の宮廷において新年を祝い、 歌笛を奏して寿祝(ほがい)をのべる、踏歌から派生したと思われるならわしがありました。 平安時代(794〜1185年)には、この正月の雑伎を「千秋(せんじゅ)万歳」と呼ぶようになり、 中世(1200〜1600年)においては、千秋万歳を業として宮廷に支える人々と、 さらに一段と身分の低い正月芸能者の一団が現れて、一般の家々へ祝事を言い続けて巡回し、 その代償として御祝儀にあづかるという風習が始まりました。

尾張万歳の起源の一説には次の様なことが伝えられています。
現在の名古屋市東区矢田町にある長母寺は、 鎌倉時代の正応年間(1288〜1293年)に、無住国師(むじゅうこくし)が 臨済宗の寺として開いたといわれています。 晩年、無住国師は、この寺で働いていた有助(ありすけ)親子(父と2人の兄弟)に、 『ここに仏教を説いて万歳を作ったから、この先暮らしに困るようなことがあったら、 この万歳を唱えて軒ごとに歩け』と法華経を分かりやすくし、歌えるものとして与えました。 そして、有助親子はこの万歳に茶目っけ十分に面白おかしく節を付け、 寺の領内を舞い歩くようになり、当時の大衆に多いに受けることとなりました。 この噂をきいて、寺本村(現・知多市八幡)の若い人たちは、その万歳の手ほどきを受けて、 知多半島地域に伝承が深く根付き、後に様々な形態に変化しながら 発展することとなったというのが定説になっています。

これとは別に、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に、京都・大阪などに住んでいた 陰陽師(おんみょうじ) 百人余りを開拓の為尾張に移住させ、彼らが職の一つとしていた千秋万歳が 尾張にも伝わったという説もあります。

また別説によれば、尾張万歳が始まったのは、安土・桃山時代(1573〜1600年)か、 江戸時代初期ではないかという説もあります。

※ 踏 歌 ⇒ 男女の集団が、春の大地を踏みならしながら歌い、舞うもので、 平安時代には宮廷の正月行事となりました。

※ 陰陽師 ⇒ 古代中国の陰陽五行説を遵奉(じゅんぽう)し、 天文・暦数(せきすう)・方位に基づいて、日・月の行事を定め、 これに従うと否とによって吉凶過福がくると説く人々。 古来は天皇の政策への進言を行っていました。
陰陽道は律令(りつりょう)時代から平安時代にかけて非常に流行し、 江戸時代には諸国の陰陽師は数万人いたといわれ、土御門家(つちみかどけ)の 門人・配下となって諸所を廻って祈祷をしました。 その後、明治中期以降は次第にすたれていき、民間の俗信へと化していきましたが、 今日、なお大安・友引・鬼門などの言葉は、 この陰陽道に発する俗信として残っています。


万歳の芸は、扇子を持って祝詞を唱える 太夫 と、鼓をたたいて合いの手を入れる 才蔵 とで演じる二人一組が基本です。 二人の関係は対等ではなく、太夫は芸に秀でた年上の者が努め、 才蔵は長年努めて芸を覚えてから太夫に出世しました。 当初は二人一組が基本でしたが、演目によっては、太夫一人を中心に、 才蔵が左右に二人・四人に増えたり、また楽器も鼓のみではなく 三味線や胡弓を加えて華やかな舞台芸となることもあります。
※ 太 夫 ⇒ 太夫の服装は風折烏帽子(かざおりえぼし)と小素襖(こすおう)で、扇子を持ちます。 烏帽子は烏の様に色が黒く、袋の形をした帽子で頭上部が風で折れた形をしており、 元服(昔の成人式)の際、男子が着用したものです。 素襖は室町時代から使われた武士の平服で、上着・袴とも家紋が五つ入る。 扇子は普通日の丸扇ですが、格式のある太夫は金銀の扇子、また、 特別の太夫は短刀を帯びることも許されるほど格式のある者も存在しました。

※ 才 蔵 ⇒ 才蔵の服装は大黒ずきんと小袖で、鼓を持ちます。 大黒ずきんは、赤色で、七福神の大黒天がかぶっている丸く横に膨れた形のもの。 小袖は、上着が普通の和服と同じで、下はたっつけという袴の一つで、 裾をひもでしばってあり、動きやすくしてあります。


知多地方は昔から海と丘陵地にはさまれて、十分な農耕地がなかったため、 農民たちの暮らしは楽ではありませんでした。 そのため尾張万歳は鎌倉時代から貧しい農民たちの数少ない娯楽として、 また、農閑期の大切な収入源となる出稼ぎとして続けられていました。

江戸時代になると、芸の優れた者は江戸の大名屋敷や地方の武家屋敷へ 万歳に行くようになり、新たな訪問先を開きました。 名古屋城を中心に美濃や伊勢・信州方面へも出掛けていたようです。 このように座敷に上がって演じる万歳は、檀那場(だんなば)万歳として、 お得意先を中心に回る万歳として定着しました。


その一方で、大半の万歳師たちは、縁もゆかりもない家々を訪問して、 玄関の土間などで演じて回る門付(かどづけ)万歳の形で行っていました。 しかし、毎年回る道筋は、概ね決まっており、訪問回数を重ねるごとに、 これがいつしか檀那場に変わっていくということもありました。 こうした檀那場は、時には家計を助けるため、経済的価値を持つ権利として、 売買されたこともあったようです。


鎌倉時代は数々の新しい仏教が生まれたことから、無住国師が初めに作った万歳は、 法華経万歳といい、江戸時代になると、家々の宗派などに合わせた四つの万歳が作られました。 これらは作者は不明ですが、無住国師の万歳と合わせて五つの万歳が、尾張万歳の基本となりました。これら 五万歳 は、家々の軒先や舞台の上で演じられるのではなく、 檀家の座敷で神仏に対して歌われるのを本儀としています。

これらの万歳の中から、家々の宗派に合ったものを選び、 厳格な作法にのって神棚や仏壇、床の間に向かって演じます。

@ 法華経(ほけきょう)万歳 ⇒ 天台宗や日蓮宗の家で行う。
仏教を分かりやすく解説した内容。主に美濃一円で演じられた。

A 六条(ろくじょう)万歳  ⇒ 浄土真宗の家で行う。
鎌倉初期の僧・親鸞(しんらん)の一代記や本願寺の御堂の素晴らしさを歌ったもの。 本願寺のある京都平安京の通りが六条であることから、 この名をとって六条万歳と呼ばれます。

B 御城(おしろ)万歳    ⇒ 江戸城や江戸の大名屋敷などの繁栄ぶりや素晴らしさを歌う。
名古屋の旧士族屋敷などで演じられた。

C 神力(しんりき)万歳   ⇒ 神道の家で行う。
伊勢神宮周辺の伊勢地方で演じられた。 名古屋周辺では熱田神宮の造営が歌われ熱田万歳といわれることもある。

D 地割(じわり)万歳    ⇒ 五つのうちで最も遅い作とみられる。
屋敷を建てる時に祝う万歳で、演じる時と場所を選ばない。


五つの万歳は、作法を重んじることから、厳格な内容で面白さに欠ける一面がありましたが、 その後面白さが求められるようになり、 福倉持倉(ふくらもくら) という万歳が作られました。題目には東海道五十三次や七福神が歌われたものなどがあります。 これは五万歳のうち、地割万歳以外を歌った後に、余興として続けられるものです。

また、江戸中期、宝暦年間(1751〜1764年)ごろには、 入込(いりこみ)万歳 といって各地の特産物や産業を祝う内容が考え出され、お茶やお酒などの特産物の名前を入れ、「お茶ばやし」や「お酒ばやし」なとど呼ばれました。 これは地割万歳に続いて歌われます。

「福倉持倉」と「入込万歳」は、神仏に向かう五万歳の一つの後に、 今度は家の人たちに向かい、雰囲気を和らげるために行われるものです。 そのため、座敷まで上がる檀那場万歳で主に行われ、 一般的な門付万歳では五万歳のうちの一つだけで、後は省略するのが普通でした。

天保年間(1830〜1844年)には、 御殿(ごてん)万歳 が考えられました。これは、地割万歳を基にしたもので、厳粛な中にも、めでたさと面白さを盛り込んで、 七福神が現れて新築を祝うというものです。

こうした新しい万歳は、宗教的信仰から生まれた尾張万歳の厳格さを和らげ、 笑いを強調した祝福芸、華やかな舞台芸として親しまれるようになりました。

※ 福倉持倉 ⇒ おめでたいものを読み上げて上品な笑いを誘うもので、 「なかなかなか・・・」と歌いだすことから「なかなか万歳」とも呼ばれます。

※ 入込漫才 ⇒ 地域によってその演目が異なる。
・ 「お馬ばやし」   木曽谷一帯
・ 「お茶ばやし」   伊勢、静岡、美濃地方
・ 「舟玉万歳」    紀伊方面
・ 「お酒ばやし」   高山地方(高山は酒屋が多い)

※ 御殿万歳 ⇒ 太夫一人に才蔵が四人か六人の舞台向けの万歳で、新春に鶴と亀が来訪し、 家を建てる柱一本ごとに各地の神を呼び込んで、瓦を伏せ、 七福神が現れて新築を祝うというものです。


万歳人口が増えるにつれ、芸の修練を呼び、優秀な万歳師も沢山生まれました。 また、演技の内容にも創意工夫が見られるようになり、 天保十年ごろ、歌舞伎や浄瑠璃の演目を取り入れ、 三曲(さんきょく)万歳 というものが演じられ始め、明治二十年ごろ完成しました。 演目には<三曲節伊賀越道中双六>、<朝顔日記宿屋の段>、<神霊矢口の渡し>、 <忠臣蔵>など五十以上あります。

「三曲万歳」によって尾張万歳は、その名を全国に広め大正時代には、 万歳の劇団も結成されるなど、全盛期を迎え、昭和十五年ごろまで続いたのです。 こうして、農閑期の出稼ぎとしてだけではなく、 一方では興行化した職業としても成立するようになりました。


「三曲万歳」のなかには、芝居万歳のほか、なぞかけ問答や、お笑いで進める 音曲(たち)万歳 もあります。現在の上方漫才は、明治中期過ぎに、玉子屋円辰や砂川捨丸ら、 関西の上方漫才創始期の芸人が、尾張の万歳師からこの「音曲万歳」を習ったのが 始まりといわれています。

※ 三曲万歳 ⇒ 鼓に三味線と胡弓を加え、三つの音色があることから三曲万歳と呼ばれます。
この万歳は楽器の弾き手と芝居の演じ手に分かれて 舞台上でにぎやかに演じるもので、「芝居万歳」とも呼ばれます。
また、五曲という形態もあり、三曲の他に、俗に立琴といわれる月琴や 笛、尺八の中から選ばれて五つの音色で奏でる「五曲万歳」もありました。

※ 音曲万歳 ⇒ 文化・文政年間(1804〜1829年)に作られ、 その掛声が「アイナラエ〜」と言うことから、掛声どおり「アイナラエ」とも呼ばれます。


江戸時代の万歳の出稼ぎは、陰陽道を支配する土御門家(つちみかどけ)の 許可を受けて行われていましたが、明治四年に国が陰陽道を廃止したため、 万歳もその道が一時閉ざされ、衰退に追い込まれました。 しかし、明治十二年に出された村役場発行の「遊芸稼人鑑札」によって、 万歳師は歌舞・音曲・鳴り物などを使って商売をする者として、 その道を再び開きました。 この鑑札によって、一時は減少した万歳師もその後は増え続け、 各地に出稼ぎ万歳に出かけることとなりました。

明治以降、鉄道網の開通に伴い、大みそかの晩には大府駅より夜汽車に乗って出発し、 出稼ぎ興行のため、西へ東へと旅立ちます。 遠くは東が東京・仙台、西は滋賀・京都・大阪・兵庫から広島あたりまで。 北は岐阜から北陸へ。南は伊勢・和歌山など。 関東方面を回る者は十日間ほど東京を回り、その後は甲州・信州を回って 名古屋へ帰るというのが一般的な行程だったようです。 明治三十年ごろには、その間の収入が三百円ほどにもなり、 東京・横浜の万歳宿が一泊数十銭(明治末期で五十銭)というから、 結構な大金となったものです。 しかし、回った先からもらう物は、お金ばかりではなく米や麦などの穀物もあり、 毎日重い袋をかつぎながらの道中でした。 宿に帰った後は、目下の才蔵は、なれない炊事仕事もこなさなければなりませんでした。

大正時代初め、愛知電鉄(現・名古屋鉄道)が開通すると、 歩いて東海道線大府駅まで出かける必要もなくなり、 一層出稼ぎに拍車がかかり、知多半島合わせて 千人を超える出稼ぎがあった年もあったようです。

昭和元年の新春からは、ラジオ放送の開始に伴って、 全国放送されるようにもなりました。 その後不景気や戦争などで幾度かの衰退を繰り返してきた万歳も大きく様変わりし、 昭和四十年前後の伊勢湾海岸埋め立てによる臨界工業の進出によって就業形態が大きく変わり、 耕作農地の減少や、転職などの要因により、万歳人口も激減しました。
戦後の言葉に「西は芸どこ、東は祝いどこ」とか「東ゃこじきで西ゃ旦那」といわれたが、 これは、西へ行く万歳師は概して芸の優れた者が多く、 東へ行く万歳師はお金が目当てで、ただ門付して歩く という連中が多かったことを評したものです。


尾張万歳も、現在では門付万歳に出かける人はなく、保存会の人たちによって、 正月の行事や式典の出し物として、主に舞台向けの御殿万歳が演じられるなど、 重要無形民俗文化財となったのを契機に、尾張万歳のすべての保存・伝承に 努めているのが現状です。

全国に残されている漫才は、尾張万歳、三河万歳、大和万歳、河内万歳、伊予万歳、 加賀万歳、越前万歳などが有名であり、他に美濃、会津、仙台、秋田にも 万歳の存在が知られています。

知多市には、尾張万歳家元五代目「長福太夫」を継いで社中を治めている方がみえます。 永い歴史のある文化遺産の保存に努め、後世に伝えるべく活動されている方々には、 頭の下がる思いがいたします。



Copyright (C) : 2012 ,「ぐんぐん」 : All Rights Reserved