「御馬頭とは」


御馬頭(御馬塔)とはオマント・オマントウと呼ばれる献馬の行事で、 雨乞いや村中安全、五穀豊穣などを願い、神社などに奉納する行事の事を言います。 御馬頭の起源はおそらく室町時代末期ころから始まり、江戸時代の初期から中期にかけて 広く行なわれるようになったと考えられます。

この御馬頭には、華やかなダシを付けて村の中を曳く「標具(だし)オマント」と、 走らせることを主眼とした「走りオマント(駆馬)」があり、 また地理的には、村単位で村の氏神に奉納する狭い地域的なものと、 いくつかの村が集まって特定の神社や寺院に集団で奉納する「合宿(がっしゅく)」があります。 合宿で大規模なものは、江戸時代に三河の猿投神社に尾張・三河・美濃の三国から 11合宿186か村の飾り馬が奉納されたことが伝えられています。 そのほか、名古屋市守山区の龍泉寺や熱田神宮・大須観音・尾張四観音などが合宿として有名です。

知多地方もかっては数多くの御馬頭が奉納されていたことは、 「市誌(史)」や「町誌(史)」などの資料に記載されており、 知多市をはじめ東海市・大府市・東浦町・阿久比町で行なわれていたことがわかっております。 東浦町の伊久智神社所蔵の「生路村祭礼図」によれば、御馬頭のいでたちは、 馬の背に御幣(ごへい)を飾った馬1頭と松の飾りを付けた馬1頭、合計2頭が、 それぞれ口取り2人、後ろから左右に2人づつ合計6人が曳いていたこと、 6人は鉢巻を巻き、衣装をそろえ、馬も曳き手も祭りらしく華やかな衣装であったと記録されています。

 ≪本内容は以下の文献資料を参考に編集させていただきました。≫
@日長二区 −氏神と行事−         2009年 5月発行
A日長二区 −その歴史−          2009年10月発行
Bふるさとのまつり 知多市歴史民俗博物館編 2001年12月発行

「日長神社の御馬頭祭」


日長神社の献馬の記録は定かではないが、元禄時代の日長大明神縁起にその記録があります。 かっては森山奥、森山中、森里西、森里東、鍛冶屋、上げ、松原の7地区から献馬がありましたが、 現在では4月の第2日曜日に行われる日長神社例祭「御馬頭祭り」の中で、 日長一区、日長二区、日長三区、新舞子北の4地区で奉納されています。

その馬も地元には一頭もいないため、長野県など山林から材木を引き出すのに使われている馬を借りています。 しかし、馬を飾る衣装だけは昔から残されており、鞍(くら)、麻を束ねて作った御幣(ごへい)と標具巻(だしまき)、 という水引きを付け、標具(だし)を組み、首鎧(くびかぶと)、鼻当て、尻駄負(しりだおい)、 障泥(あおり)と呼ばれる豪華な刺繍を施した飾り衣装をつけます。 この馬一頭に、笠と法被、わらじばき姿の厄年の曳き手が交代で4人づつ付き、 若衆の大太鼓、小太鼓、横笛のおはやしとともに、各地区から日長神社に繰り込みます。

祭り本番では献馬で神社に繰込んだ後、4地区の祭囃子が拝殿の前で一斉に競演されます。 戦前は祭りの若衆も15歳から23歳と決められており、年齢によって階級と厳しい掟(おきて)があり、 永い間伝承されていましたが昭和32年に献馬は一旦中断しました。 そして昭和48年に日長一区と日長二区で復活し、 昭和54年からは4地区で42歳の厄年の人々によって奉納が復活したものです。

「曳き手の装い・献馬の飾り」


曳き手は歌舞伎役者のような化粧をし、衣装を整えています。 各地区毎に色の異なるはんてん・ももひき・鉢巻・わらじ履きの姿で、帯のしばり方も地区により異なります。 衣装の内、はんてんは長期間使用するが、鉢巻やわらじなどの消耗品は毎年曳き手本人や各地区で用意されます。

献馬は飾り付けて一般道を曳くため、おとなしい性格の馬がもとめられ、 献馬には鞍に御幣(ごへい)・標具巻き(だしまき)を付け標具(だし)を組み、 首鎧(くびかぶと)・鼻当て(はなあて)・尻駄負(しりだおい)などが飾り付けられる。 現在利用されている飾りのうち、御幣は毎年作り変えていますが、 その他はほとんどが昭和初期あるいはそれ以前に整えられたものです。

「道中・お祓い・献馬奉納」


御馬頭の内容は、各地区から日長神社へ向かう「道中」、曳き手が神社神前で受ける「お祓い(おはらい)」、 神社石段下の通りで行なわれる「献馬奉納」で構成されています。

「道中」とは、各地区の集会場から日長神社への往路及び復路で行われる献馬や曳き手らによる行列のことで、 先頭から手張提灯、高張提灯、囃子、献馬と曳き手、地区住民の順で並ぶ。 囃子は男女問わず子供から一般までで構成され、出発時や到着時、地区内の神社前などで奏でられます。

日長神社に到着すると、曳き手は献馬を残して石段を登って神社拝殿に向かい、さい銭入り柄杓を神社へ納め、 参拝した後、石段を降りて馬の元へ戻る。これが「お祓い」です。

御祓い後、拝殿では例祭式典が行われるが、式典と同時進行で神社石段下の通りで行われるのが「献馬奉納」です。 1頭の馬に4人の曳き手がつき、大鳥居から神社石段下(宮下)までのおよそ200mを 定められた順序で歩き奉納します。これを各々順序を変えて合計4回繰り返します。 かっては花馬や奉納の順番を巡り争いが絶えなかったそうで、争いを避けるため明治32年に 日長村役場が中心となって奉納順序を取り決め、現在もこのルールが守られています。

「日長神社の沿革」


日長神社は、日長駅一帯の古見から続く小高い丘の上に位置し、 昔の森村(現在の日長)を見下ろすような格好で村を見守っています。 日長神社は、日長郷7村(森・岡田・鍛冶屋・松原・羽根・粕谷・大興寺)という かなり広範囲の総社であった記録され、江文大明神、日高の神、日本武尊の三神が祭られ、 神社の創建については江戸時代であったであろうと言われております。 本殿の東にある大きな岩は 「磐境(いわさか)・神の鎮座する施設や区域の意」であったと言われ、 歴史が非常に古いことを物語っています。 つまり、「磐境」とは現在のように社殿を設けてまつる様式以前の方法の一つで、大きな岩を神としてまつる方法であり、 もう一つには「神離(ひもろぎ)」といって榊の枝に紙垂をつけたものに神をお招きしてまつる方法とがありました。

神社の境内の裏にある小さな池は御手洗池と言い、神が初めてこの池に現れたと言われています。 またこの池は、日本武尊が里人に命じて掘らせ、平和な時は水が澄み、戦争が始まると水が濁ると言い伝えられており、 日照りの時でも水が枯れることがないという不思議な池です。

どこの神社も屋根は桧皮で葺かれている場合が多く、長年の風雨で損傷するため、 屋根を葺き替えたり社殿を新しくすることが行なわれていましたが、日長神社においても記録によれば、 天正9年(1581年)以降、直近では昭和10年(1935年)や昭和41年(1966年)など、 14回と2,30年毎に御遷宮が行なわれていたことが残されています。

神社の森の一角には「もみじ谷」と呼ばれる所があり、大正2年頃に約100本の紅葉樹を植えたのが始まりで、 秋には紅葉狩りを楽しむことができます。



「日長の地名由来」


日永太明神略縁起によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が御東征の帰り道にこの地に立ち寄られ、 神官を召して日暮れの早さを問われたのに対して、神官がまだ日は高いと申し上げると、 尊は喜ばれて此処を日高(ひだか)と名づけられました。 日高(ひだか)が後に日永(ひなが)と訛り、江戸時代の中ごろから日長(ひなが)と書く様になりました。 日長あるいは日永とは、春の昼間の長く暮れにくいこと、またその時節は春という意味になります。

日長の地名とその起こりについては、日長神社との関わりが言い伝えとして残されています。

『遠い昔のこと、この地の岬に舟が流れ着き、村人が集まってみると 大和地方の豪族である日本武尊の一行が途中しけに合い、やっとのことでこの浜にたどり着いたことがわかりました。 村人たちは一行に食事や住まいや船の修理など手厚いもてなしを施しました。10日ほど後、一行の出発の準備が整うと、 日本武尊は「お礼のしるしに、この里が末永く平和で栄えるよう、岬の高台にある社に祈願した。」と伝え、 また、「岬の先端に立つと、美しい夕日がなかなか沈まない、この里を日永の里と呼ぶがよい。 日永の里は美しい土地だ、それに賢くて情けの深い人々の村だ。」と言い残され、一行が出発されたそうです。 翌朝、一匹の鰐(わに)が現れ、「私はこれから後、この日永の社の召使になります。」と言い残して姿を消しました。 平和な日々が続いた後、能登の国が戦をしかけ、沖合に無数の船がやってきたが、 突然大鰐が現れ、沢山の花鯨(鯱・しゃち)と力を合わせ敵の船を沈めて、見事に日永の社を守ったそうです。』

「ギャラリー」


※ 写真撮影は2013年4月14日、「白山神社(新舞子北)」、「日長神社」 於


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